記憶から木録へ『国破れて‘山河’あり』(紙すき爺さん)

by w-history

歴史人

1543年、日本にヨーロッパから鉄砲が伝わりました。
火縄銃です。日本は戦国時代のまっただなか。
大名たちの中にはキリスト教を信じる者が現れます。
今の大分県を治めた大友宗麟もキリシタン大名でした。
そして、「高山右近」。大阪府や兵庫県に領地をもっていた大名です。
戦国時代が終わると、キリスト教は禁止されるようになります。
しかし、高山右近は信仰をやめませんでした。
生涯を閉じるまで信仰を守り続けた高山右近。
やがて右近は日本を追放されフィリピンにわたります。

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武将たちが覇権を争った戦国時代、世界は大航海時代を迎えていた。
日本にも1549年にはキリスト教が伝来することになる。
当時の日本人は、東南アジア、そしてヨーロッパの人々を「南蛮」と呼ぶ
ようになった。彼らは大海原を乗り越え、日本へ多くの文物をもたらした。
なかでも高槻城主・高山右近と九州の戦国大名・大友宗麟は、
積極的に南蛮渡来の文化・技術を取り入れた。
(高槻市立しろあと歴史館「高山右近と大友宗麟の時代」)
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# by w-history | 2013-04-11 17:19

解体新書

 この本の出版で日本の医学は大きく前進することになります。またオランダ語の翻訳技術が進み、医学以外の学問も盛んになります。このような西洋の学問を「蘭学(らんがく)」と呼びました。
 今からおよそ240年前、医者であり蘭学者でもあった杉田玄白は、仲間といっしょにオランダ語の解剖書を翻訳して『解体新書』を作りました。その原書『ターヘル・アナトミア』という本には、人間の体の中の内臓や筋肉、骨格などが詳細に描かれていて、玄白たちは驚きました。医者である玄白も、それまで体の中を見たことがなかったのです。そうやって始めた翻訳は大変な作業でした。辞書などなかったからです。

 ある日、処刑(しょけい)された囚人の解剖に立ち会う機会を得た玄白は、『ターヘル・アナトミア』にかかれている解剖図の正確さに感動し、このときの気持ちを書き残しています。「基本的な人の体の中も知らずに医者をしていたとは・・面目もなき次第」。当時の医者は、主に患者の様子を外から見て病気を判断し、薬を使って治すのが常でした。

1774年は、玄白が『解体新書』を出版した年。こう覚えましょう。「人の中ながめて調べた(1774)解体新書」。
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# by w-history | 2013-04-08 23:00

2014大河

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平成26年のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛(かんべえ)」に決定しました。福岡藩祖、黒田官兵衛孝高(よしたか)が主人公で主演は人気グループV6の岡田准一さん。豊臣秀吉に天下を取らせた名軍師ぶりが、どのように描かれるか今から楽しみです。

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# by w-history | 2013-04-08 20:00

干提寺

「提=ゼウス」
 昭和62年9月にオープンした茨木市立キリシタン遺物史料館は、「隠れキリシタンの里」として有名な千提寺にあります。 
 茨木の山地部の千提寺や下音羽は、キリシタン大名として高名な高槻城主であった高山右近の領地であったことから、キリシタン宗が布教されました。
 しかし、豊臣秀吉はキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、徳川幕府もキリシタン禁教令を発布したため、信者らは隠れて信仰を続けました。この時信仰の対象となったものが、隠れキリシタンの遺物として、キリシタン遺物史料館に展示されています。(茨木市)

「ザビエル像」
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ナバラ生まれのイエズス会宣教師ザヴィエルを大きく配し下部に「S.P.FRACISCUS XAVERIVS SOCIETATISV」のラテン文と、「さんふらぬしすこさべりうすさからめんと」と読める万葉仮名を記した聖画像。ザヴィエルは極東地域のキリスト教布教の草分けで、天文18年(1549)鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた重要な人物。本図は、光輪をつけ、手に神への燃える愛を象徴する赤い心臓を抱き、キリストの磔刑(たっけい)像を見上げ、口から「満ちたれり、主よ満ちたれり」というラテン語文を発する聖人を描く。イエズス会の布教活動の中で西洋画の手ほどきを受けた絵師が、輸入された銅版画を手本にして、ザヴィエルが列聖された元和8年(1622)より後に礼拝画として制作したと推定される。本図は、高山右近の旧領、千提寺(せんだいじ;現茨木・いばらき・市)の旧邸に伝わった「開けずの箱」に秘匿(ひとく)されていたもので、大正9年(1920)の調査で「マリア十五玄義図」などとともに発見された。禁教で破却された聖画のうち、伝世した数少ない江戸初期の洋風画として重要。 (神戸市立博物館・重要文化財)
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# by w-history | 2013-04-07 12:00

維新


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(1835~1867)
 土佐に生まれ江戸で剣術の修業の後、帰国して勤王党に加盟しました。脱藩して勝海舟の門人となり神戸海軍操練所に学びます。元治元年(1864)以降操練所が閉鎖されたため、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎にやってきます。そして、慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。

「海援隊」は、龍馬率いる亀山社中が発展したものです。
慶応3年(1867)、土佐藩重役・後藤象二郎や西郷隆盛らの協力により、龍馬の脱藩罪が解かれ、海援隊(隊長:坂本龍馬こと才谷梅太郎)が設立されます。海援隊の名前は、海から土佐藩を援護するという意味から来ていると言われています。

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海援隊の基本理念等は、隊則である「海援隊約規」によく表れています。

入隊資格は「およそかって本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る」。脱藩者、海外開拓の志を持った者であれば入隊が可能でした。

隊の目的は「運輸、射利、開拓、投機、本藩の応援をなすを主とす」。運輸、射利、開拓、投資、そして土佐藩の応援です。特に、射利(利益追求)というのは、海援隊が現代の会社のように利益を求め、経営を行うという当時としては画期的なものです。

また、隊長の権限、隊士の互助のほかに、修行科目(政法・火技・航海・汽機・語学等)や隊の自活運営もうたわれており、政治・商事活動を行いながら、様々な勉強をするという集団でもありました。

海援隊は、慶応4年(1868)閏4月に解散しました。活動の期間は約1年と短いものでしたが、維新後に活躍した陸奥宗光(陽之助、外務大臣)、中島信行(作太郎、衆議院議長)、石田英吉(長崎県令)などの多くの人材を生み出しています。また、長崎土佐商会主任として海援隊との交渉にあたった岩崎弥太郎も、維新後三菱をおこし日本経済の発展に寄与したことで知られています。(亀山社中記念館)
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# by w-history | 2013-04-06 19:00

神戸えくん

 来年のNHK大河ドラマで取り上げられる姫路市ゆかりの戦国武将「黒田官兵衛」をPRしようと市が制作したイメージキャラクター「カンベえくん」が2日、ひめじ観光大使に就任し、石見利勝市長から委嘱状が手渡された。かんべえくんは三の丸広場で開かれる第28回観桜会でデビューする。
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 かんべえくんは身長約2メートルでりりしい武将姿。黒田家が目薬を売り歩き財を成したことにちなみ、趣味は「目薬の制作」とされる。官兵衛が豊臣秀吉の参謀として活躍し、良き相談相手だったことから、かんべえくんも特技は「悩み相談」なのだそうだ。石見市長は「軍師としての知略を生かし、姫路を盛り上げてほしい」と期待していた。

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 ◇官兵衛の妻光もHPに--加古川市
 一方、加古川市は、、同市出身とされる官兵衛の妻光(てる)にスポットを当てたコーナーを今月から市ホームページに立ち上げた。しかし「準備中」が多く、掲載が急がれている。
リンク先はhttp://kanbee.kako-navi.jp

 メイン画面には、イメージキャラクターのかんべえくんとともに、てるひめちゃんも登場し、楽しめそうな構成となっている。しかし主要記事三つのうちの「官兵衛と光ゆかりの地」「黒田官兵衛探求記」の二つが2日現在「準備中」で閲覧出来ない状態。担当の観光協会では「立ち上げに間に合わなかった。早く掲載を始めたい」としている。
【毎日新聞】〔播磨・姫路版〕4月3日朝刊
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# by w-history | 2013-04-06 17:00

馬関

 大河のような潮流の両側に山が迫った代表的な「海峡」の景色。ここは古戦場であるとともに、幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあり、道沿い岸壁には長州砲のレプリカも南をにらんで配置されています。中世から近代までこの時代を動かす熱いエネルギーは歴史の転換点で、いつもスポットライトを浴びてきました。下関、関門海峡には今も多くの船が東シナ海と昼夜ゆき交います。眼前に迫る景色と汽笛の音は「日本の音風景百選」に環境庁が指定。

 北九州から門司港レトロ展望室(不定休;現在おとな300円)は、高層マンション『レトロハイマート』の31階にあります。宮本武蔵と佐々木小次郎が決戦をした巌流島がかすかに見えるような・・その一瞬の時の広がりは人を魅了するのでしょう。もちろん眼下の門司港レトロの街並みも見渡せ夜景も非常にきれいな恋人たちのデートスポットとしても人気。

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# by w-history | 2013-04-06 12:00

石見銀山

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石見銀山は東アジアの東辺にあたる日本列島の西部にあり、大陸に面した日本海岸近くに位置します。1526年に九州博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)によって発見されて以来、1923年の休山まで約400年にわたって採掘されてきた日本を代表する鉱山遺跡です。

大航海時代の16世紀、石見銀山は日本の銀鉱山としてヨーロッパ人に唯一知られた存在でした。それは当時ヨーロッパで制作されたアジアや日本の地図に、石見銀山付近を指して「銀鉱山王国」「銀鉱山」と記されていることからも明らかです。

また、石見銀山で生産された銀は高品質で、東アジア交易において最も信用が高く、石見銀山の所在する佐摩村(さまむら)にちなんでソーマ銀と呼ばれ流通しました。 16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたものだったと考えられています。

石見銀山が銀を基軸にした東アジア交易において重要な役割を果たしていたことは明らかで、今も遺跡として当時のままに残されています。
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# by w-history | 2013-04-06 08:00

但馬の銀山

現在の兵庫県朝来市にある生野銀山。1580年(天正八年)、織田信長が但馬一国を勢力下におさめた後で、生野銀山を豊臣秀吉に領地として与えました。生野ではこの当時の日本の銀山の中でも特に大きな生産額を達成しました。銀山は秀吉にとっては特別に重要な収入源でした。秀吉は、金銀山は「公儀」つまり公のものであるとして支配下に収めます。生野銀山のように直轄化した鉱山には、奉行や代官を派遣して管理にあたらせました。そして生産額の一部を上納させたのです。これが秀吉の収入になるわけです。

没後に書かれた伝記でこう書かれているものもあります。
「太閤秀吉公御出世より此かた、日本国々に金銀山野にわきいで、そのうへ、高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍、金欄、錦紗、ありとあらゆる唐土、天竺の名物、われもわれもと珍奇のその数をつくし、上覧にそなへたてまつり、まことに宝の山をつむに似たり。」

秀吉が生まれたから金銀が出てきたように書いていますが、もちろんそうではなく、これは戦国大名たちが開発してきたからです。
ただその金銀で海外の高価な品物を買っていたわけで、つまり金・銀の多くは輸出されたということです。当時日本は、全世界の銀の産出量の3分の1を占め、世界の経済に大きな影響を与えていたのです。(NHK)
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# by w-history | 2013-04-05 12:00

紀州


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 後期。紀ノ川沿いに代々医者を勤める華岡家があった。

 当主・青洲が京に遊学中、青洲の母・於継(おつぎ)が近郷の名家の娘・加恵(かえ)を青洲の嫁に迎えた。於継に憧れていた加恵は華岡家の嫁になれただけでも幸せだったが、その上、於継は加恵を大事にし、その睦まじさは人も羨むほどであった。青洲の妹、於勝や小陸にも加恵はよく尽くした。

 ところが、青洲が京より帰郷すると、その様子は一変した。何かと青洲に世話をやく母や妹達。青洲のすべてを知る母や妹達に、加恵はかなうはずもない。手も足も出せない加恵は惨めな気持ちになるのであった。

 青洲をめぐる嫁と姑の争いは激しさを増し、妊娠した加恵を里に戻そうと於継は段取りをつけてしまう。加恵は実母に悩みを訴えたが、嫁と姑とはそういうものだと言い聞かされる。

 その頃、青洲の妹・於勝が乳癌を患う。於勝は青洲に切開手術をしてくれと懇願する。紀州一の名医と言われるまでなっていた青洲は麻酔薬の研究に没頭していたが、薬はいまだ完成せず、手術をすることはできなかった。於勝は死去する。「人が病で死ぬのは、いつも医術が至らぬからなのだ」と絶叫する青洲の目には涙がにじんでいた…。(NHK)

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# by w-history | 2013-04-01 02:00

役者インタビュー

 龍馬のように「倒幕」と「経済」の方向へ日本を引っ張っていくんだという開明的な若者もいたんですけれど、頭の良い青年たちはみな医学に吸い寄せられているんですよね。彼らが漢方ではなく西洋医学に強く惹かれたのには理由があって、西洋医学というのは王様も貴族も普通の人も…身分に関係なく、診療所にみな等しく並ぶという考え方が浸透していたから。「病のもとに身分は関係ない」という事実が、彼らにとっては大変衝撃的でまぶしく見えたんでしょうね。

 緒方洪庵というのは、とても思い入れのある人物でね。私の尊敬している人が“日本史の中で3人の尊敬する人物”を挙げているのですが、それが勝海舟・坂本龍馬・緒方洪庵なんですよ。そんなこともあって、この洪庵も以前からとても興味のあった人なんだけれど、坂本龍馬は青春時代に命を懸けて演じた思い出があるし、勝海舟も来年大河ドラマで演じることが決まった矢先、ひょこっと「洪庵の役をやらないか」というお話をいただいてね。「ああ、これもなにかの縁だな」と運命を感じて引き受けました。自分としては、それなりに演じきったつもりです。(武田鉄矢)

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 1838年、28歳の時に長崎から大坂に戻り、瓦町に適塾(正式名は「適適斎塾」)を開業。医業のかたわら蘭学を教えることになる。以後大坂で医者としての地位を確立し、教育者としても福沢諭吉や大村益次郎、橋本左内ら多数の人材を輩出した。また痘瘡対策として牛痘を使った「除痘館」を設立し、天然痘の撲滅に尽力した。

 洪庵自身は1862年に幕府から江戸での奥医師を命ぜられ、やむなく江戸へ赴くが、そのわずか10ヶ月後に53歳で死去した。だが適塾はその後、大阪大学医学部の源流となり、洪庵は明治以降の日本の医学界の祖として、大きな足跡を残した。(NHK)
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# by w-history | 2013-04-01 01:00