記憶から木録へ『国破れて‘山河’あり』(紙すき爺さん)

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東京のキリシタン史跡

 大航海時代の日本、特に長崎を舞台にしたキリシタン史の本を意識して読むようになった。その中の1冊、H.チースリク『キリシタン史考――キリシタン史の問題に答える』にこんな一文がある。

ポルトガルが東、スペインが西へ進んだとき、何処かで再び出会って衝突し
なければならなかった。この衝突の場が、政治上ではフィリピンであって、
宗教上では日本であった。

 日本を抜きにして大航海時代は語れない。これらはLes Voyages云々という長いタイトルの個人旅行ブログ情報であり正確性の判断は他に委ねるがキリシタンと日本の歴史の関わりを知る参考になると考え引用し原著者に敬意をもって掲載させていただいた事をここでお断りしておく。
 長崎ほど豊富ではないが、東京にもキリシタン史跡がある。年が明けて平成21年、週末を利用してそのいくつかを訪問してみた。

■札の辻と「元和キリシタン遺跡」の碑

 JR田町駅西口または都営三田線三田駅を利用し、品川方面に歩くこと約300メートル。「札の辻」の交差点が見えてくる。
 札の辻という地名は全国各地にあるが、いずれも高札場だったことに由来しているようだ。ここ、三田の札の辻は東海道から江戸への正面入り口で、今も昔も変わらぬ交通の要所である。

 1623年三代将軍に就任した徳川家光は、江戸に集まっていた諸大名への示しとしてキリシタンの火刑を命じ、12月4日、50名がこの地で処刑された。昨年2008年11月に列福された原主水もその中に含まれている。

 現在、住友不動産三田ツインビルの敷地内に「元和キリシタン遺跡」の碑が置かれている。碑は広場の奥、広くゆるやかな階段を上りつめた先にある。この階段は済海寺方面への抜け道にもなっているようで、通る人が時折足を止めては案内板に見入っていた。

■小伝馬町江戸牢屋敷跡


地下鉄小伝馬町駅から歩いてすぐ。
 1606年に設立されてから1875年に廃止されるまで、数多くの囚人がここに収容された。前述の原主水も札の辻で処刑されるまでの日々をここで過ごしている。また慶長遣欧使節とともにローマに赴いたソテロ神父も一時収容されていた(ソテロ神父は1624年に大村で殉教)。
 もっともキリシタン専用の牢獄だったわけではなく、一般には吉田松陰の終焉の地として知られている。牢屋敷は非常に広大で、現在の十思公園、大安楽寺を含むあたり一帯が跡地だという。

 大安楽寺は、刑死した人々の菩提を弔うために建てられた。道路に囲まれた敷地一杯に本堂や庫裡が建っていて、「都会のお寺」といった趣き。一角に「江戸傳馬町牢御椽場跡」の碑が立つ。

188福者の代表格、ペトロ・カスイ岐部はこの小伝馬町の牢内で殉教した。
 豊後国国東郡生まれ。有馬のセミナリヨを出て同宿として教会で働いていた時に禁教令に遭い、他の多くの宣教師と共にマカオに亡命する。この地でイエズス会入会と司祭叙階を目指すが叶わず、単身ローマ行きを決意した。
 インド、パレスチナを経て陸路ヨーロッパへ。隊商に混ざり、砂漠を歩いて、三年後にローマの地を踏んだ。
 天正遣欧使節や慶長遣欧使節の旅が添乗員つきツアーなら、岐部のそれはまさにバックパッカーである。この時代「添乗員つきツアー」であっても、生きて帰ってこられない可能性の方が高かった。岐部の旅がどれほどの大冒険だったかは推して知るべしである。 現代人でも、同じ旅をしろと言われたら躊躇う。
 ローマで晴れて司祭に叙任された岐部神父だが、そこで満足する彼ではなかった。ポルトガルから、今度は海路をとってアジアへ。そして禁教下の日本に潜入するのである。彼の胸には宣教へのやみがたい情熱が燃えていた。8年間の地下活動の末、1638年3月、岐部神父は捕縛される。その身柄は井上政重に預けられた。

二十六聖人の処刑から40年が経ち、政府はキリシタンを華々しく殉教させるのは望ましくないと考えるようになっていた。英雄的な死はキリシタンたちのヒロイズムを刺激し、かえって信仰心を強めることにもなりかねない。
 そこで考え出されたのが、穴吊りに代表される拷問だった。
甚だしく苦痛を伴う、見た目にもみじめな刑罰。苦しみに耐え切れず転んでくれればなおよい。神父が転べば一般信徒も後に続くだろう。

 しかしこのやり方は、岐部神父には通用しなかった。
 この小伝馬町の牢屋敷中庭で穴吊りの刑に処せられた岐部神父は、決して信仰を棄てようとせず、それどころか一緒に吊るされた信者を励ましつづけたので、最後は穴から引き上げられて斬首された。
 井上政重は書き残している。

「キベヘイトロは転び申さず候。吊し殺され候。是はその時分までは不巧者にて、同宿二人キベと一つ穴に吊し申候故、同宿ども勧め候故、キベ殺し申し候」


この短い文の中に、自身も元キリシタンであったとされる井上の、岐部神父に向けた敬服の念が垣間見えるように思うのは、うがちすぎだろうか。

「石町時の鐘」鐘楼内にあるのは江戸最古の時の鐘

「松陰先生終焉の地」の碑がある。その先に再来年のNHK大河はみえているのか!?


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# by w-history | 2013-11-28 10:47
 弥生時代を代表する集落跡の「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」(奈良県田原本町)から出土した土器片が、同時代中期中ごろ(約2200年前)に九州北部で作られた土器と判明し、町教委が15日、発表した。同遺跡を含む近畿の弥生時代の遺跡から九州の土器が確認されたのは初めて。専門家は「瀬戸内海を通じて直接交流があった可能性がある」としている。

 須玖(すぐ)式と呼ばれる土器の破片で、甕(かめ)の口縁部(こうえんぶ)にあたる。長さ13センチ、幅5・3センチ。昭和63年に出土し、今回、土器の再整理作業中に確認された。

 須玖式土器は、筑前(ちくぜん)地域(福岡県)で出土する弥生時代中期の土器。口縁部をL字形に折り曲げ、赤く彩色する特徴がある。

 唐古・鍵遺跡では、これまで出土した土器の西限は吉備地域(岡山県)。逆に九州側から見た場合も、弥生時代中期の九州の土器が出土した東限は吉備地域だった。町教委の担当者は「広域交流の可能性を示し、問題を提起する土器」とのこと。

 土器片をみた田崎博之・愛媛大教授(考古学)は「たとえ出土したのが1点でも、当時の広域交流を考える上で重要な意味を持つ」としている。(産経新聞)

 土器片は16日~12月23日、町内の唐古・鍵考古学ミュージアムで展示される。
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# by w-history | 2013-11-16 20:57

内憂外患という構造

 幕末物の小説は数ある
しかし名作というのは国の変化と個人の内部変革を
うまく織り交ぜて描いた作品といえる

 戦国物が親方思想であるのに比べ少し複雑な内容
になってしまうのは単に苦労人話では済まない時代
背景だからだ

 つまり右肩上がりのバブルと現代の差によく似て
いる

 こう表現すれば分かりやすいが実際はどうか

 例えば幕末は尊王攘夷だとか公武合体など鍵になる
四字熟語が話の流れで理解しにくい場合もある

 そこで決して押し付けるわけでは無いが
全て尊王派と心の中で断定して行間を読む

 簡単に改革派か保守派なのかに2分される

 残るは幕府という政治体制だけでストーリーは
知れているから興味は主人公の運命となる

1.「登場人物が外圧で変貌する」のか
2.「徐々に内側から苦悶しつつ化ける」

どちらかに絞れるわけでなく両者あいまって
激動の潮流を泳ぎ辿り付いた岸辺がどこなのか

1または2のうち醍醐味は[2]であり大河ドラマ
で迫真の演技が見られる情報化社会に感謝しつつ
年越しの黒田官兵衛という戦国武将が近年まれな
タイプ2の豊かな宗教観ともいうべき考えを
持った歴史人であることに期待するのである

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# by w-history | 2013-11-11 20:16

モノマネうた

 歴史に残る歌がある
 誰もがつい口遊んでしまうメロディーと詞

 音楽は初めから真似の文化でオギャ~が
いつまでたっても抜けない男性を持て余す
ママさんも胎教を怠りないよう・・・?

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 コロッケさんが昭和の頃には島倉千代子さん
の「人生いろいろ」を18番にしていたが
導入としてはやり易いモデルだったと思う

 というのは坂本冬美・石川さゆり・藤あや子
(以上敬称略)にくらべ比較的ぼそぼそ調で
失礼を承知で言わせて貰えばプロっぽくない
からである

 しかし奥は深いものでなかなか本当に人生
の傾きかけた人なら演じ切れないサウンド

 晩秋の季節に紅白のメンバーを想像しながら
考え込んでしまった・・・合掌

 AKBと大御所がコラボする番組を見て微笑まし
いなと感じたが聞いたところによると中には元
昭和のアイドルで今は路線を演歌に変えた人も
居るらしく勉強不足を恥じた

 勢いだけでは味が出ないのだから泥臭くても卒業
してしまえるのは発展の余地が残されているわけ
だし時間ができれば新たな取り組みもできる

 何と競争しているのかよく分からないキャラも
それはそれでお笑いとしては楽しめたのだろう

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# by w-history | 2013-11-09 10:15
 7年後のオリンピック・パラリンピックまで時間はあるようで無い。

 観光でも日本に来てもらう段取りなら世界的に通用する映画なり作品で
早い段階から1度は訪れてみたいと思わせる仕掛けが必要なんです。

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 昭和59年放送のNHK大河第22作。先日なくなられた山崎豊子さんの小説
「二つの祖国」をもとに太平洋戦争をはさむ激動の時代を描いたドラマ。
 生き抜いた日系アメリカ人・天羽(あもう)家の人々の視点を通して
日本とアメリカを舞台に、二・二六事件、太平洋戦争、日系人の強制収容、
原爆投下、東京裁判へと続く昭和史です。

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 当時の放送は子供には難しかった。ましてや外国人に解釈を求めるのは不可能
と言えるでしょう。そこで故・竹山道雄氏の児童向け「ビルマの竪琴」に続ける
かたちで方向性を決めれば比較的わかりやすい。

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 大陸で話をハッピーエンドにまとめ上げれたら海外にあずけてしまって1年間
NHKのスタッフも休める。そうやって芸術の分野で隣国と協力できるような体制が
望ましく逆に外国の長編物語を腰を据えて鑑賞しようという気にもなり相互理解
や平和に発展する可能性も出てくるわけです。

 例えばベトナム戦争を知る機会を発展途上国の番組から意外に提供されるかも
しれません。

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# by w-history | 2013-11-06 16:55

軍艦島保全

 政府は5日、2015年の世界文化遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のうち、国の史跡指定を受けていない長崎市・端島(通称・軍艦島)の「端島炭坑」を保全するため、財政支援に乗り出す方針を明らかにした。軍艦島は遺構の劣化が進み、保全費用の確保が課題となっていた。

 この日の参院内閣委員会で、内閣官房の川本正一郎地域活性化統合事務局長が「世界遺産にふさわしい管理保全には財源が必要だ。文化庁と協力して必要な予算の確保に努めたい」と述べた。秋野公造議員(公明党)の質問に答えた。

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)による世界文化遺産の登録には、将来にわたる保護管理体制の確保が重要な条件となっている。来夏には、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査も予定される。

 軍艦島は国の補助対象となる国史跡指定を受けておらず、イコモスに否定的な評価をされる可能性がある。文化庁によると、埋蔵文化財緊急調査費国庫補助事業などとして、軍艦島の国史跡指定前の支援に特化した予算措置を検討する。

 軍艦島では1890年に採炭が本格化し、1916年に日本初の鉄筋高層アパートが完成。コンクリートの劣化が進む遺構の保全費確保は長崎市にとって重い課題だった。市が3月にまとめた報告書は、石炭事業の生産施設と護岸の保存、劣化が進む建物2棟の整備費を16億円と試算した。市世界遺産推進室の田中洋一室長は「国の財政補助が受けられるのであれば大変ありがたい。世界遺産登録に向け、早期の整備着手が可能になる」と歓迎する。

 政府はまた、長崎原爆で被爆した同市の城山小学校旧校舎についても、将来の世界遺産登録を目指し、国の重要文化財指定に向け政府が市と連携して取り組む考えを示した。(西日本新聞)

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# by w-history | 2013-11-06 13:20

続・花神に期待  

 司馬遼太郎の幕末を描いた作品の中から

 医者で軍師のようでもある大村益次郎(村田蔵六)


 小説に出てくる楠本イネはシーボルトの娘という設定ですが
主人公との「あれは恋だったのでしょう」謎めいた脇役でした

 中途半端に終わっています?

 再来年の大河は流れに乗って愛媛や九州を舞台に日本初の
女性産科医という人物を取り上げてはいかがでしょうか

 マリー・アントワネットの生まれ変わりのような時期ですが・・・

 ところで八重の桜の結末は何か起こるのでしょうか!

 当初はジャンヌ・ダルクと噂されていましたが
 どちらかと言うと「あさきゆめみし」のアッちゃんのほうが
 そんな雰囲気になっているような

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# by w-history | 2013-11-06 12:47
 去年の10月ころ交流サイト「フェイスブック」の同市公式ページで大河ドラマ決定を告知されると、同サイト会員によるページビュー数が掲載から2日過ぎた時点で通常記事の20倍以上となる約2600人を突破。通常は1けた台の「いいね!」の数も約460件と、反響の高さをうかがわせた。

 誘致する会副会長の三宅知行・姫路商工会議所会頭は
「これまで多くの(映画やドラマの)撮影実績を残したことが評価されたと思う。」と喜びの言葉を述べ、
「姫路城の改修工事を含め、姫路は現在大きな転換期。周辺地域と連携しながらまちの活性化につなげたい。」とコメントした。

 ドラマ放映の翌27年春には、姫路城大天守の「平成の大修理」も終了予定。市はドラマの効果で、官兵衛ゆかりの姫路への観光客増加につなげたいところだ。

 市は早速、JR姫路駅の市観光案内所に横断幕を掲示。姫路市白浜町の会社員、秋山孝子さん(59)は
「最高のタイミングで市民としてうれしい限り。全国からの観光客が増え、街が活性化してほしい。」と期待を寄せた。(産経ニュース)

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# by w-history | 2013-11-06 10:25
 西日本一の高さを誇り「四国の屋根」と称される石鎚山系の東端、赤石山系。その一つ、標高1294メートルの銅山越(愛媛県新居浜市)の周辺は、登るにつれて時を遡ることができる空間だ。

 一帯にはかつて住友家が営んだ別子銅山があった。元禄4年(1691年)の開山から昭和48年(1973年)の閉山まで、282年間にわたって銅を採掘した。山中では往時を物語る遺構が静かに時を刻む。深い山の奥にたたずむ威容は、南米ペルーの山中にあるインカ帝国の遺跡になぞらえて「東洋のマチュピチュ」の別名を持つ。

 銅山跡を訪ねるには、まずJR新居浜駅からバスで山麓付近の端出場(はでば)に向かうのが一般的だ。海岸線から内陸へ数キロメートル。険しい山が目の前に迫る。ここは最後の採鉱本部が置かれた場所で、今は遺構を生かした観光施設「マイントピア別子」がある。

 坑道は山頂付近から掘り下げられ、最終的には延長約700キロメートル、深さは海面下約1000メートルにまで達した。マイントピアではその一部を見ることができる。山腹を長さ10キロメートル近く水平にくりぬいた物資運搬用のトンネル「通洞」が残っており、暗闇をのぞくと今でも削岩機の音や労働者の声が聞こえてきそうだ。夏には30度を超す外気との温度差は約15度。冷気が白い霧状になって吹き出ているのが見える。

 マイントピアには年間43万人程度が訪れる。多くはマイカーや観光バスの利用者で、観光坑道などを見るだけで帰る。しかし銅山の歴史を肌で感じるには、自分の足で一帯を巡るのがお薦めだ。

 登山道の入り口はダムの近くにある。夏草が生い茂り、まるで獣道だ。散歩中の住民に道順を尋ねると「最近ここから登る人は少ないよ」と心もとない返事。見渡すと渓谷に架かる朱色のアーチ橋が目に入った。明治後期に完成した古い鉄橋だ。渡った先の道は閉鎖され、こちらに進むことはできない。

 登山道をひたすら登る。さわやかな風が吹くが、険しい道に玉の汗がしたたる。渓谷に響く清流の音が応援団だ。ふと、目の前にカラスアゲハが舞い降り、ビロードのような羽を披露してくれた。

 明治初期に牛車道が完成するまでは、この山道を30~45キログラムの鉱石を背負った男女が列をなしていたという。彼らも昆虫や山鳥とのささやかな出会いに心を和ませたかもしれない。

 途中、鉱毒水を流したレンガの水路跡などを見ながら歩くこと約2時間。ようやく「天空都市」のある標高750メートルの東平(とうなる)に着く。

■いよいよ天空都市に

 東平には鉱山が端出場に移転する前、大正から昭和初期にかけて採鉱本部があった。最盛期には労働者とその家族ら3800人が暮らしたという。今も掘り出した鉱石をためておく貯蔵庫や、鉱石を山裾におろす索道(リフト)基地の跡が残る。山肌に沿って石造りの遺構がそびえ立つ様は、まさに天空都市だ。

 今では観光スポットとして知名度も上がり、年間に6万人が訪れる。取材した日も家族連れやハイヒールをはいた若い女性が記念写真を撮っていた。

 端出場からは幅の狭い車道が通じているので、東平だけを見て帰ることもできる。しかし、マイカー族が目にする遺産はあくまでも一部。実は銅山越の先の南斜面にこそ、歴史が詰まっている。

 銅山の歴史は17世紀の終わりごろ、南斜面に鉱脈が突き出ているとの情報が住友家にもたらされて始まった。採掘は手掘りからダイナマイト、削岩機へ。鉱石の運搬手段も人力から牛馬、蒸気機関車、そして電車へと進化した。様々な仕事が今の住友重機械工業や住友林業、住友化学などを生んだ。

 開山当時の名残を残す銅鉱の露頭までは、東平から1時間半余り。登山ルートは整備され、端出場からの道より快適だ。露頭の東側には最古の坑道の入り口が残る。その名も「歓喜坑」。大鉱脈を掘りあてた当時の喜びが伝わってくる。

 別子銅山では風雪のため行き倒れたり、豪雨で命を失ったりした人がいた。歓喜坑の周囲には繁栄の陰で犠牲になった人々を供養する塔が点在する。

 南斜面をさらに下ること一時間余りで、旧別子銅山登山口に着く。ここに車を止めて高山植物に富んだ赤石山系山頂付近を周回する登山客が多いが、江戸から昭和に至る銅山の歩みを追いかけるなら、端出場と旧別子銅山登山口を結ぶルートに限る。ただ登山口から新居浜市街地に戻る手段は1日2便のデマンド方式のバスだけ。日帰りは事実上不可能で、周辺に宿泊施設はほとんどない。

■観光開発はこれから

 交通や宿泊面に課題が多いのは、一帯が住友の所有であり、今も犠牲者の供養を行うなど、関係者にとって特別な場所であることと無縁ではない。

 山麓にある別子銅山記念館の田尾邦雄館長は「この山は住友の原点として大切な場所」と、安易な観光地化には慎重な姿勢を示す。一方で「銅山での事業が日本産業の近代化に大きく貢献しており、多くの人に意義を理解してほしい」とも話す。

 新居浜市もこれまでは端出場と東平以外については積極的なPRを行ってこなかった。登山ルートの検証や旅行商品の開発も緒に就いたばかり。「東洋のマチュピチュ」が多くの人の目に触れるのはこれからだ。(日本経済新聞松山支局長 入江学)

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# by w-history | 2013-11-05 09:51

この国のかたち

あらためて「この国のかたち」について考えるときがある

ところでネガティブという言葉がある

外来語のようだかマイナスではいけないのか

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日本という国はじつにマイナスで溢れている

世界でプラスであればよく

要はマイナスを管理するということである


逃げ出すマイナス達を兎に角よせ集め

そこに何かを見い出してきた私達


そもそも国土は妙に中途半端な手足もない

四国を抱くメタボの怪物のやうである


レコーダーも無い時代には

小型の収納ケースに潜んで諜報がられた民族


忍者のふるさと伊賀甲賀の郷

私の出世作も「梟の巣」であった

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# by w-history | 2013-10-25 10:50

八百屋お七

木曜時代劇「あさきゆめみし ~八百屋お七異聞」9月19日(木)スタート!
NHK総合にて毎週木曜日午後8時から8時43分放送<連続10回>
再放送:毎週日曜日午後1時5分から1時48分【同じく総合テレビ】

 五代将軍綱吉が就任したばかりの延宝九年(1681年)二月、江戸本郷丸山で起きた火事は駒込まで燃え広がり、追分片町の裕福な八百屋「八百源」も類焼した。
「八百源」の1人娘、お七は店と住まいが建て直されるまで大乗寺に預けられる。お七はこの寺で、寺小姓の吉三を見初め、切ない恋に身を焦がす。やがて八百源が再建され、お七は追分片町に戻った。父、喜兵衛は働き者の手代勘蔵を見込み、お七の婿に迎えようとする。しかしお七はどうしてもうんと言わない。お七の心の中には吉三が住み着いていた。そして吉三も。この秘めやかな二人の思いが、やがて悲劇の幕開けとなる。

【作者】八百屋お七の放火事件と、火あぶりの処刑は、天和三年(1683)の実話だが、井原西鶴や鶴屋南北による芝居のすじがきには、かねてから矛盾を感じていた。
 自宅を焼け出されて、避難し逗留した寺の寺小姓に恋をしたお七は、再建された自宅に戻されても、悶々と恋を忘れられず、遂に放火事件を起こす。火事になれば、また寺小姓に逢えると思ったのだ。
 しかしである。それがほんとなら、お七は自宅に火を放つはずだ。ところが放火は自宅から遠い別の寺で起きている。西鶴や南北のすじがきには、どう考えても無理がある。
〔実はお七は冤罪ではなかったか。誰かを助けるために、罪をかぶったのではないか〕
これが今回のドラマの骨子である。ほんとうの恋は、その人のために、死ねるかどうかだというのがメインテーマだ。
 思春期の初恋は誰でも経験する。本能に根ざす恋は、1種の狂気であり、正邪善悪とは関係ない。
 ケータイやパソコンなど、文明の利器に振り回されている現代の若者も、恋は同じだと思うが、通用するだろうか。前田敦子に期待する。(ジェームス三木)

【音楽】渡辺俊幸

【出演】前田敦子 池松壮亮 平岡祐太 竹下景子 中村敏正ほか

【演出】

 ジェームス三木さん曰く。「作家と演出家、足して161才、ギネスブックものだねえ」
また、こうも言いました。「私より年上の演出家とのつき合い、最近なかったなあ」
そして今ぼくは、60才違いの若い若い女優とのつき合いで毎日ハラハラドキドキの連続でいます。
 でも、その前田敦子、アッちゃん、とってもいいですよ。正直なところ、始まってすぐは、相手役の池松壮亮くんと、内側の表現力など大丈夫なのかなあという思いがいっぱいいっぱいありました。でも撮影が進んで、ある日、演技のはしばしに見つけた豊かな表情をみて、とてもとても驚かされました、俳優の成長ってこういうことなんだなあって。もちろんその裏には事実上のチーフ演出岡田健、若手で意欲いっぱいの演出土井祥平の力、そしてもう一つもちろん、ジェームス三木さんの脚本、渡辺俊幸さんの音楽の良さもあるのですが…。あ、忘れてた、両親役の中村雅俊さん竹下景子さん、住職役のためにトレードマーク、バーコードと自称する髪の毛を泣く泣く剃った田山涼成さんたちの素晴らしい芝居のサポートもありますよ。
 とにかくこの10回、充分期待していただいて間違いありません。八百屋お七は、どうして火あぶりになったのか?で、その火あぶり、本当にやるの?アッちゃん、燃やされちゃうの?可哀そう、やめてえッ!そんな声が、今から聞こえてきます。

 終わりに愚痴とお礼を1つ。まだ撮影は続いてるんだけど、真夏の撮影、ロケが多くて、ホントに暑かったァ。何回も倒れるかと思った。それも、お七の放火が330年前の12月、処刑されるのが明くる年の3月ときて、やたら冬のシーンが多いんだから大変!
 美術技術チームの頑張りがなかったら絶対にうまくいきませんでした。ありがとうを最後に、演出の言葉とします。(岡崎栄)

ほか 岡田健 土井祥平

【制作統括】

「恋しい人に会いたくて、火事になればまた会えるから」

 八百屋お七の物語は、恋する女性の衝動で始まります。この衝動が、ジェームス三木さんによって深い愛情の物語に生まれ変わりました。恋の始まりから火あぶりとなるまで全部で10話の物語の中には、恋する人の率直な、率直すぎる言葉が溢れています。

「恋のことば」の宝庫です。あまりに率直でどきりとします。「この人を誰よりも好き」という自信にあふれ、そして必死だからこそ、「人を思う気持ち」の本質を衝いて耳から離れないのだと思います。では、そんな台詞を抱えて誰がお七を演じればいいのか。このドラマの1番の関門です。制作開始をお知らせした時、前田敦子さん起用の理由を「演じたいと体中が言っているような情熱」とお伝えしました。
 二ヶ月の撮影を通して、本当にこの人は演じたかったんだなと実感しています。今では聞くことのあまりなくなった言葉の渦の中で、1つ1つを全身で受け止め、熱を放出しようとしています。お七に献身的でさえあります。あっちゃん演じるそんなお七はパッションでイノセント。
 そして恋から愛へ。恋するお七と池松壮亮さん演じる吉三の恋の秘めごとには「キュン」とさせられ、やがて互いを思う愛の姿に「ドキリ」とします。誰もが思い当たる「愛する気持ち」を世代を超えてご覧いただけることを願っています。(NHKエンタープライズ 小松昌代)  

ほか 原林麻奈(NHKドラマ番組部)

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# by w-history | 2013-09-27 10:55

新説、本能寺の変。

戦国武将の織田信長が天下一統を目前に自害をとげた「本能寺の変」は、天正10年6月2日、西暦でいうと1582年6月21日に起こったとされる。中国地方攻略を進めていた羽柴(豊臣)秀吉に加勢するためわずかな側近だけを連れて向かった信長は、前々日より京都の本能寺に滞在していた。そこへ、同じく中国攻めに加わるため大軍を率いて出発した信長家臣の明智光秀が、突如として主君を討つべく急襲したのだ。

光秀はなぜ、信長に反旗を翻したのか? これについては、日本史における大きな謎の一つとして長らく議論が続いている。さきごろ朝日新聞出版より創刊された「週刊 新発見!日本の歴史」の第1号では、本能寺の変について、最新の学説にもとづいてその真相に迫っている。それによると、光秀が本能寺急襲におよんだその理由としては、以下のようなものがあげられるという。誌面では、それぞれの説の有力度が星の数(最大3つ)で示されていた。

・怨恨説 星2つ
・野望説 星2つ
・悲観説 星1つ
・四国政策説 星3つ
・黒幕説……朝廷説(星1.5つ)、足利義昭説(星1つ)、羽柴秀吉説(星0.5つ)、徳川家康説(星0.5つ)

このうち「怨恨説」は、面罵された、領地替えを命じられたなどの理由で、光秀が信長に恨みを抱いたという、ドラマやマンガなどでもおなじみの説である。だがこれを断定するにはまだ証拠が不十分なのか、星2つにとどまる。星3つをつけたのは「四国政策説」だけだが、この説は一般的にはなじみが薄いかもしれない。私も不勉強にも初めて知った。

信長はもともと、土佐(高知県)の長宗我部氏と友好関係を結び、同氏による四国制圧を容認していた。この関係の媒介役を担っていたのが光秀(とその重臣の斎藤利三)だった。それが1581年から翌年にかけて、信長は友好から対決へと四国政策の方針を転換、それまで長宗我部氏の窓口となっていた光秀はすっかり立場を失ってしまう。このことが彼に信長を討つ決意をさせたというのだ。

もちろん、これによってすべてが説明できるわけではない。光秀はあくまで自らの決意で信長を討ったのか。それとも、四国政策の転換から家臣団のなかで不利な立場となった光秀を、かつての主君ともいうべき足利義昭(室町幕府15代将軍)が、自らを中心に形成した信長包囲網に取りこんで信長殺害をうながしたのか。結論を出すには、さらなる史料の検討が必要のようである。

個人の動機は、けっして一つに絞りきれるものではないだろうし、権力の中枢にいる人間ならなおさら、その時代の政治的な力学のなかで、さまざまな要素を判断材料にしながら決断を下すはずだ。

だからこそ、歴史学の世界では、人物のパーソナリティよりも、その背景にあるものを分析することに重点を置く。そのあたりについては、「週刊 新発見!日本の歴史」創刊号でも、東大史料編纂所准教授の金子拓が「「本能寺の変」の真実」という記事のなかで次のように書いている。

《近年の研究では、良質な史料を見きわめ、まずそれらを丁寧に解釈しようという姿勢が共有されている。これまで本能寺の変とむすびつけて論じられなかった史料を、年次比例作業により天正10年のものとみなし、関係史料として用いようという研究も進展した。そのうえで、信長や光秀の個性に注目するのではなく、より広い時間的・空間的視野で本能寺の変に至る政治的背景を分析しようという取り組みが試みられるようになった》

同様のことは、本能寺の変にかぎらずほかの歴史上のできごとにもいえるのではないか。金子はまた《歴史的想像力とは、信頼しうる史料をおさえてこそ発揮しうるものである。根拠がなかったり、信憑性の低い史料を土台にしたりした想像力は、妄想でしかない》とも書く。

「良質な史料を見きわめ、それらを丁寧に解釈する」という姿勢は、この新シリーズに貫かれたもののようだ。何しろ、「史料を読み解く」というコーナーまで設けられ、創刊号では太田牛一『信長記(しんちょうき)』(『信長公記』とも呼ばれる)がとりあげられている。

あるいは、「キーワード新解釈! 戦争」というコーナーでは、1575年の長篠の戦いをとりあげる。信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼率いる騎馬軍団を打ち破ったこの戦いは、信長軍が鉄砲3000挺を3列に配することで、1000挺ずつの一斉射撃を連続させるという“新戦術”で勝利を得たものと、一般的には知られてきた。

だが、この記事にはのっけから、《この戦いで鉄砲の威力が認識されたとか、飛躍的に普及したといった史料も見当たらないから、長篠の戦いを戦術革命と呼ぶのは疑問である》と記されている。そもそも信長の戦術を「三千挺三段撃ち」と初めて書いたのは、合戦から40年ほどのちの文献で、それが“史実”として定着してしまったというのが真相らしい。

このように、内容的にはかなり専門的なものとなっているが、イラストなど図版をふんだんに用い、ビジュアル中心に編集されているので、するすると頭のなかに入ってくる(欲を言うなら、人名や用語についてもう少し注釈なり解説がほしいところだが)。

同時代の世界史についても、見開きの世界地図のうえに、各国の動向、あるいはポルトガルから日本にもたらされた鉄砲や、宣教師ザビエルの伝道の足どりなどが示されていてわかりやすい。この時代の日本とヨーロッパとの交易は「南蛮貿易」として知られるが、最近の学校教科書では、東アジアでの交易という新たな視点が加わっているという。これについては巻末の、文科省の教科書調査官である高橋秀樹による連載「ここまで変わった日本史教科書」の第1回にくわしい。

朝日新聞社からは、出版部門が分社化される以前の1980年代に「週刊朝日百科 日本の歴史」というシリーズが刊行され(2000年代には新訂増補版も出た)、私も愛読したものだが、今回の「週刊 新発見!日本の歴史」もまた往年のシリーズと同様に、近年の研究から新たにわかった史実や新解釈が盛りこまれ、創刊号からがっつりと手ごたえを感じた。

全50冊を通じて、旧石器時代から現代までを描き出そうというこのシリーズ、来週火曜(6月25日)発売の第2号では「開国の真実 幕府は事前にペリー来航を知っていた」と題して、幕末・維新の謎に迫る予定だという。“通”を気取りたい歴史ファンは、これから毎週火曜日が待ちきれなくなりそうだ。

※朝日新聞出版のHP内に「週刊 新発見!日本の歴史」スペシャルサイト開設(エキサイト)

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# by w-history | 2013-06-21 12:29
 円高であった昨夏の情報だが起点となるトルコの首都イスタンブールへはトルコ航空が直行便を出しているほか、モスクワやシンガポール、香港、ヨーロッパの各都市を経由する便などが豊富にある。格安航空券で6万円前後、ツアーは8日間13万円ほどから。

 イスタンブールからカッパドキアへは、飛行機で約1時間半(カイセリ空港)、バスで約13時間。ちなみに首都アンカラへはバスで約5時間、パムッカレへはバスで約10時間。

 現地ツアーはやはりピンキリだが、地下都市や『スターウォーズ』の撮影現場になったウフララ渓谷トレッキング、陶芸教室などを体験する1日ツアーで40ドル前後から。主な観光地へはドルムシュという乗り合いタクシーやバスがたくさん出ていて、自力で回ることもできる。すべてを回ったら3~4日かかるほど広大。

 カッパドキアを訪れるツアーの多くは、世界遺産「イスタンブール歴史地区」「ヒエラポリス - パムッカレ」も訪ね、探せば「トロイの古代遺跡」を回るものもある。これだけで4つの世界遺産を回ることになる。

 冬は積雪のため、ウフララ渓谷などのトレッキングはできないし、ゼルヴェ屋外博物館なども入り口付近しか入れない。12~3月の夜はマイナス10度を切ることもしばしばだ。奇岩も、やはり大地から突き出していてこそ。冬より夏がおすすめだ。

カッパドキア を作っているのは億単位の地球の活動と、正しく生きたいと願った人間の情熱だ。妖精になること。それは、この世界が目的や意味に満たされた予定調和な世界であるというのではなく、岩の力、雨の力、動植物の力、時間の力、人の思いの力、そうした「神秘に気づく」ということなのである。その普遍的価値が認められ、「ギョレメ国立公園とカッパドキア の岩窟群」は世界で29件しかない複合遺産として世界遺産に登録されている。

 いまだ全部でいくつあるのかわかっていない数多くの地下都市があり、最大のものは21層で地下100メートルをゆうに超え、4万人が暮らしていたという。地下都市でもっとも有名なのがカイマクルとデリンクユだ。中はまさに蟻の巣で、住居をはじめ修道院、教会、ワインセラーなどから、墓地や通風孔、さらには敵の侵入を防ぐための円盤まで用意されている。

 4世紀前後から、ローマ帝国によって迫害を受けたキリスト教徒がこの地に集まりだした。やがてローマ帝国はキリスト教を国教化するが、つづいてイスラム勢力がこの地を治めると、キリスト教徒はふたたびこの地に集まるようになる。ギョレメの地名は「見てはならぬ」の意味。キリスト教徒にとっては「見られてはならぬ」。外から見られないように、岩窟に教会を作り、地下都市を築いた。

 紀元前2,000年前後のヒッタイトの時代には、すでに交易の要衝としてカッパドキア が成立していた。キリスト教との関係は深く、聖書にはパウロがこの地を訪れたという記録もあり、キリスト教の有力な教父が現れてこの地にキリスト教を広めている。(All About)

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# by w-history | 2013-06-02 08:03

今城塚

 安満遺跡は弥生時代を代表する環濠集落です。居住域の南側に井堰や用水路を設けて水田を営み、東西に方形周溝墓を築くなど様子がよくわかります。みつかった土器の分析から、北部九州で成立した弥生文化がいち早く近畿地方にもたらされたことを初めて明らかにした日本考古学史上重要な遺跡です。最大の特徴である埴輪祭祀場は、家、人物、動物など数多くの形象埴輪が整然と並んでいます。

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# by w-history | 2013-04-25 11:49

狩野山雪

 江戸時代、京都を中心に活躍した絵師・狩野山雪(1590~1651年)の住居が京都市中京区新町通御池下ルの神明町周辺だったことが分かった。身内の金銭トラブルに巻き込まれた山雪が揚屋(あがりや)(未決囚の留置所)に入った際の裁判記録から判明し、不遇だった晩年の山雪の姿もうかがえる。
 山雪の住所は、当時の京都所司代、板倉重宗の裁判記録「公事留帳(くじとめちょう)」に残されていた。慶安2(1649)年9月25日、山雪が揚屋に入れられたとの記述がある。山雪の義弟・伊織に金を貸した人物の訴えに、山雪は当初「弟でない」と申し開きをした。だが、義弟と確認され、伊織の代わりに揚屋に入るように命じられた。山雪の住所は「新町通神明町」とあり、神明町の地名は今も残る。
 「公事留帳」は、京都国立博物館(東山区)で開催中の特別展「狩野山楽・山雪」の準備段階で見つかった。狩野派を研究していた美術史学者・故土居次義さんが京都工芸繊維大に寄贈した調査ノートに公事留帳の写真が貼ってあった。写真を基に兵庫県立歴史博物館の五十嵐公一さんたちが個人所蔵の原文にたどり着き、奥平俊六大阪大教授たちが記述を確認した。山雪は、京狩野を開いた狩野山楽の弟子で、京狩野を継いだ。伊織は山楽の不肖の息子で、その借金騒動に山雪が巻き込まれたとの説もあった。山雪は、懇意にしていた九条家の尽力で揚屋から出るが、入獄の1年半後に死去した。
 特別展を担当した京博学芸部連携協力室の山下善也室長は「神明町の近所には肥前鹿島鍋島藩屋敷もあり、肥前出身の山雪と縁があったのかもしれない。入獄がなかったら、山雪はもっと多くの仕事をしていただろう」と話している。公事留帳と土居さんのノートは、「狩野山楽・山雪」展(5月12日まで)で展示されている。

 狩野山雪(かのう・さんせつ) 肥前(現在の佐賀、長崎の一部)に生まれ、幼少期に大坂へ移住。16歳ごろ、狩野山楽に弟子入り。山楽の婿養子となり、1635年に跡を継いで京狩野派2代目に。(京都新聞)

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# by w-history | 2013-04-23 15:31

池波さん宛

e0319512_8435245.jpg 「鬼平犯科帳」などで知られる人気作家、池波正太郎さん(1923~90年)の東京都内の自宅から、池波さん宛ての手紙やはがき計113通が見つかった。このうち4通は国民的作家の司馬遼太郎さん(23~96年)からで、池波さんへの親愛の情がうかがえる。手紙の一部は「作家の手紙」を特集した22日発売の「オール読物」5月号(文芸春秋)に掲載される。
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# by w-history | 2013-04-20 08:37

玉藻公園

高松市にある玉藻城跡に整備された公園。もとは豊臣秀吉の軍師官兵衛が築いた要塞で三方の堀に海水を引き入れ、城の守りと水運を兼ねた全国でも珍しい水城[みずじろ]だ。往時の面影を伝える着見櫓[つきみやぐら]、艮櫓[うしとらやぐら]は重要文化財。海水の導入口や内苑御庭[ないえんおにわ]、披雲閣[ひうんかく]、松平家ゆかりの品を展示した陳列館もぜひ見ておきたい。駅から東に歩いて左手に港を眺めながら進むと右手に約15~20分の散歩道。運がよければ内堀に鯛?が泳いでいるそうだ。(るるぶ)

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# by w-history | 2013-04-13 13:07

日露国交史

 ピョートル1世がロシア帝国を誕生させた、およそ40年後、当時世界最大の領土をほこったロシア帝国の皇帝に、面会した日本人がいました。大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という人物で、三重県鈴鹿市に、その記念館があります。光太夫は江戸時代半ば、伊勢に住み、米や木綿などの物資を運ぶ船の船頭でした。

 1787年、嵐で遭難した光太夫は、仲間とともに、遥か北方のロシア帝国に漂着します。
帰国を目指すも、シベリアの寒さと飢えに仲間たちは次々と命を落としていきました。

 当時ロシア帝国に君臨していた皇帝は、女帝エカチェリーナ2世でした。エカチェリーナ2世はピョートルと同様に、領土拡大と国の近代化を押し進めていた専制君主です。海外進出に励むロシア政府は、鎖国政策をとっていた日本の徳川幕府との貿易を望んでいました。そのため、日本人漂流民の帰国を禁じ、国策のために日本語学校の教師として定住させていました。

 生き残った仲間の中には、帰国を諦めロシア人女性と結婚するもの、キリスト教に入信するものなど、別の人生を歩み始めたものもいました。しかし、光太夫と仲間の数人は諦めませんでした。ロシアに漂流して9年が経ち、光太夫は、ついにエカチェリーナに面会できるチャンスを掴みます。光太夫はヨーロッパ式の宮廷マナーを身につけ、貴族のような振る舞いで、エカチェリーナと面会します。そして漂流の苦難、次々と死んでいった仲間たちの無念、故郷日本への帰国の念をロシア語で訴えました。光太夫の訴えに、エカチェリーナは心を打たれ、帰国許可を出しました。こうして光太夫と数人の仲間は1792年、エカチェリーナが派遣した使節団ラクスマンらと共に、帰国を果たします。エカチェリーナは光太夫の帰国をきっかけに、日本との交渉を始めようと考えたのです。翌年の1793年、史上初の日露交渉が行われ、そこで光太夫はラクスマンの通訳を務めました。大黒屋光太夫記念館では、ロシア貴族の服を着た光太夫の姿が描かれた絵が残されています。一人の漂流民が、時の皇帝の心を動かしたことで、日本とロシアの外交の第一歩が記されました。

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# by w-history | 2013-04-12 11:23

副長の行方

司馬歴史小説の「燃えよ剣」では新撰組の土方歳三は
地元で色男として描かれ始め最後には五稜郭の馬上で
射殺され散ったという

しかし侍ジャパンG7ファンとしてこれは到底うけ入れ
られない

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そのようなだらしない人物像で隊の規律を守れたと思
えないし犬死したとは信じていないのです

近藤勇の墓は板橋にありますが土方はどうっだったで
しょう

世間を騒がせた殺伐とした時代に死亡したとして墓を
建てざるを得なかった事情と勝手に推測しています

すでに新政府の艦船に乗った伝説から日本の女性に
嫌気がさしてロシア美人を探しに行ったのでは?

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# by w-history | 2013-04-12 10:43

本能寺の変

京の手前で利長、危機一髪 南蛮寺の宣教師は見た

 国立天文台(東京・三鷹)によると、この時の彗星は1582J1と名付けられ日欧で記録がある。ハレー彗星より明るかったという。現在の本能寺は、京都市役所前の上京区御池通り寺町下ル付近にあるが、当時は、現在地の南西約600メートル、四条西洞院の地にあった。今の京都の繁華街、四条烏丸交差点の北西付近といえばわかりやすいだろうか。「日本史」の著者でしられるフロイスは、本能寺の変が起きた時は九州にいて、歴史的瞬間を目撃することは出来なかった。

 天正10年4月、日本の上空に大きな彗星が現れた。その年に書かれた「日本イエズス会年報」によると、宣教師たちは何か恐ろしいことが起きる前兆ではないか心配したという。
 恐れは現実となった。同年6月2日、西暦で言えば1582年6月20日の水曜日、午前6時ごろだったという。京都の本能寺が炎に包まれた。天下人であり、キリシタンの後ろ盾、織田信長はあっけなく殺された。

 京を制した明智軍は、いったん南に向かい、高槻城に入ったが、高山右近を味方につけようと穏やかに去った。次いで、京の伴天連たちをむりやり動員して右近説得にかかったのである。宣教師は、日本語とポルトガル語の2通の手紙を右近に送ったという。日本語では光秀に言われたとおり「味方につくよう」と書き、ポルトガル語では「謀叛に加担することなきように」とあったという。この話で右近がポルトガル語を読めた数少ない日本人だったことが分るのだが、右近にはもともと、光秀軍につく考えはなかったようだ。「(キリシタンは)善悪が明快で、容赦会釈もないほどに倫理的なのである。切支丹は信仰上の裏切りはもとよりだが、世間の人倫関係での裏切りをも、激しく忌む」と作家司馬遼太郎氏はこの時の右近の判断を「播磨灘(はりまなだ)物語」に描いている。

 右近は、大阪から急ぎ高槻城へ帰り城を固めた。秀吉が「大返し」で備中から取って返す報が入ると、西宮まで出向いて合流、山崎の合戦へ態勢を整えるのである。
 朝の6時に起きた本能寺の変の一報が、安土城下に届いたのは約4時間後の午前10時とも11時とも言われている。留守役の武将でさえ逃げ出すものがいて「城下は上を下への大騒動」に陥ったと「可観(かかん)小説」(加賀での室鳩巣の言葉を伝えるとも言われる書)にある。
 危機一髪だったのは前田利長だった。当時21歳。信長の娘・永姫を妻とする利長は、信長に誘われて安土から妻ともども京に向かっていた。琵琶湖にかかる瀬田の唐橋手前で岳父・信長の死を知った。「京のほうから走り来るものあり、何者とみると、信長公の草履取(ぞうりとり)…」などと「可観小説」には詳しい。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。
 そのころ、北陸にあった前田利家は越中魚津城を攻めていた。事件を知ったのは2日後の6月4日である。利家、利長、右近。後に強い絆で結ばれる3人は三者三様、秀吉という巨大な星の下で歴史の舞台転回に立ち向かうことになる。

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 本能寺からわずか一町(約110メートル)東に、南蛮寺があった。高山右近が設計から資材集めにまで骨を折ったキリシタンの“城”である。本能寺の変を書き残した国内資料はいくつもあるようだが、この南蛮寺にいた外国人宣教師たちの報告書が最も生々しいと言われている。キリシタン資料の多くを翻訳した松田毅一氏(1921―1997)の著書「南蛮資料の発見」には、以下のように「本能寺の変」目撃録が訳されている。
 その朝、南蛮寺では早朝のミサの準備をしていた。本能寺の門前での騒ぎに気付く。「単なる喧嘩ではない。明智が信長の敵となり信長を包囲した」と第一報。やがて「内部には謀叛を疑う気配はなく若い武士と茶坊主と女たち以外はなく、抵抗するものはいなかった」と詳細な中身が伝わる。
 「手と顔を洗い終えて手拭いで身体をふいている信長に矢が放たれた。信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍(ながやり)である薙刀(なぎなた)という武器を手にしてしばらく戦ったが腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り戸を閉じそこで切腹した」(要約)と続く。
 日本側の「信長公記(しんちょうこうき)」によると、信長が手にしたのは弓で、ツルが切れるまで矢を放ち続けたという。また、大久保彦左衛門の「三河物語」には、謀叛が起きたと聞いた信長は「信忠(のぶただ)=信長の長男=の裏切りか」と叫んだことになっている。信忠は、本能寺近くに陣を張っていたが、この朝、父とともに明智軍に殺されている。事実かどうかは別として、信長は、明智の裏切りをまったく予想しておらず、当時の人々が信長が自分の息子に謀叛を起こされる可能性さえあることをばく然と感じていたことを伝えるエピソードでもあろう。
 さらに、大久保彦左衛門は信長の死を「因果」と決め付けている。信長の恩恵を受けた宣教師、ルイス・フロイスも本能寺の変を「信長の大いなる慢心による」と表現している。信長の、対一向宗や比叡山との宗教戦争で見せた大量虐殺は、人の死を見慣れた戦国の世でさえ、異様で凄惨(せいさん)なものと受け取られ、信長が、いつかは非業の死を遂げる予感が人々にあったことを、示しているのである。
 よく知られたように、明智光秀は備中攻めの羽柴秀吉の援軍として進軍中に、京都郊外の老坂(おいのさか)で進路を本能寺に変えた。が、西への援軍は明智光秀だけではなかった。高山右近、筒井順慶(じゅんけい)ら近畿の諸大名たちも一斉に備中へ向けて軍を進めていたところだった。高槻城を出た右近は大阪付近にまで進んでいたらしい。城はほとんど空っぽだった。(北國新聞「加賀百万石異聞」)

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京都の錦市場を北の方角へ抜けるとやや東に本能寺が現れます
もちろん再建されたものでしょうが位置はほぼこのあたりだった
ようで修学旅行の学生さんをちらほらみかけます

近年、商店街はさびれる一方で市場の文化も知らない若者が
騒いでいるのはちょっと残念ですね
本能寺の近辺はとくに繁華街というわけでもなく閑散として
古都の商いを散策するのにもカフェで休憩することもできます

鴨川沿いには今もプロテスタント教会が存続しているようです
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# by w-history | 2013-04-11 18:35