記憶から木録へ『国破れて‘山河’あり』(紙すき爺さん)

by w-history

細川ガラシャ物語の主な登場人物

細川玉

 明智光秀の娘で、16歳の時に坂本城より、勝(青)龍寺城主細川藤孝の息子忠興に嫁ぎました。天正10年の本能寺の変により丹後味土野の山里に幽閉されるなど、苦難の生活が始まる。そして、心の平安を求めてキリスト教を信仰し、洗礼を受け「細川ガラシャ」となります。38歳にて悲劇的な最後を遂げる。短いながらも幸福な新婚時代を過ごしたのが、長岡京市にある細川氏の勝龍寺城です。

細川忠興

 山城国勝龍寺城主細川藤孝の長子。天正5年(1577年)父藤孝とともに織田信長に従軍し、摂津・播磨・丹波・丹後方面に転戦し、天正6年8月には明智光秀の三女「玉」を妻に迎えました。本能寺の変では直ちに信長に対する弔意を表し、反光秀の行動を示しました。


細川藤孝(幽斎)

 安土桃山時代の大名。永禄11年の信長入京の際には朝廷の警備にあたったほか、岩成友通の篭る勝龍寺城を攻略し、同城を与えられます。子忠興が明智光秀の娘玉と結婚し、緊密な関係にありましたが、本能寺の変では光秀に協力せず秀吉につき、丹後田辺城主となります。歌人としても知られています。

細川麝香(じゃこう)

 沼田光兼の娘で細川藤孝の妻(忠興の母)となります。勝龍寺城沼田丸は麝香の実家の沼田氏の郭(くるわ)とも言われています。

明智光秀

 安土桃山時代の武将。足利義昭の臣となり、のち織田信長に従います。天正10年信長の命で備中高松城へ向かう途中本能寺の信長を急襲します。しかし山崎の合戦で秀吉に敗れ、小栗栖で自刃します。

明智煕子

 明智光秀に奥入れ前に疱瘡を患い、顔に痘痕が残ったのを父範煕が案じて、妹を身代わりにしたてましたが、光秀がすすんで煕子を娶りました。また、浪人時代の光秀が接待役になった時、髪を売って金を工面し、夫の面目を保ったという逸話でも知らています。

清原マリア

 大外記清原枝賢の娘。細川ガラシャの侍女となり、セスベデスより受礼し「マリア」となります。玉をも感化し、玉は「ガラシャ」となります。

松井康之

 安土桃山時代の武将。細川幽斎、忠興に仕えた重臣。永禄11年9月、細川藤孝が勝龍寺城を奪回したとき功をあげ、城下に屋敷と賄料を与えられるとともに、藤孝の養女と縁組みをします。以後細川家に一門格の筆頭重臣として仕えます。

明智弥平次

 明智光秀の甥で女婿。光秀の忠臣として丹波攻略に従い、天正9年ころは丹波福知山城主でした。本能寺の変後は安土城に在り、坂本城落城とともに自刃します。

注釈:勝竜寺城公園(しょうりゅうじじょうこうえん)

 暦応2年(1339)に細川頼春(よりはる)が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀(あけちみつひで)の娘、玉(後のガラシャ)が細川忠興(ただおき)に嫁いだ城で、後年の山崎の合戦では光秀がここに本陣を構えました。鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが発掘調査で明らかになりました。この跡地が管理棟(資料展示室)、櫓や庭園などを備えた都市公園の姿で復興しました。

長岡京ガラシャ祭とは・・

 天正6年(1578)に細川忠興へ嫁いだ明智光秀の娘「玉」(のちの細川ガラシャ)の「愛と感動の物語」を象徴した市民まつりです。長岡京市が誇るべき重要な歴史遺産の1つである勝龍寺城が、平成4年に勝竜寺城公園として復興したのを記念して、その年の11月に第1回ガラシャ祭が行われました。

 祭りは、お輿入れ行列や歴史文化行列、町衆祝い行列などが市内中心部を巡行するほか、市内の商店や市民の方々の参加によって、模擬店や市民ステージショー、フリーマーケットなどの楽市楽座が行われます。平成20年からは祭りの期間が拡大され、11月初頭からコンサートや古典芸能など各種イベントを開催し、第二日曜日の行列巡行・楽市楽座に向け、祭りの雰囲気を盛り上げていきます。(長岡京市ホームページ)


[PR]
by w-history | 2014-02-05 14:20