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記憶から木録へ『国破れて‘山河’あり』(紙すき爺さん)

by w-history

日露国交史

 ピョートル1世がロシア帝国を誕生させた、およそ40年後、当時世界最大の領土をほこったロシア帝国の皇帝に、面会した日本人がいました。大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という人物で、三重県鈴鹿市に、その記念館があります。光太夫は江戸時代半ば、伊勢に住み、米や木綿などの物資を運ぶ船の船頭でした。

 1787年、嵐で遭難した光太夫は、仲間とともに、遥か北方のロシア帝国に漂着します。
帰国を目指すも、シベリアの寒さと飢えに仲間たちは次々と命を落としていきました。

 当時ロシア帝国に君臨していた皇帝は、女帝エカチェリーナ2世でした。エカチェリーナ2世はピョートルと同様に、領土拡大と国の近代化を押し進めていた専制君主です。海外進出に励むロシア政府は、鎖国政策をとっていた日本の徳川幕府との貿易を望んでいました。そのため、日本人漂流民の帰国を禁じ、国策のために日本語学校の教師として定住させていました。

 生き残った仲間の中には、帰国を諦めロシア人女性と結婚するもの、キリスト教に入信するものなど、別の人生を歩み始めたものもいました。しかし、光太夫と仲間の数人は諦めませんでした。ロシアに漂流して9年が経ち、光太夫は、ついにエカチェリーナに面会できるチャンスを掴みます。光太夫はヨーロッパ式の宮廷マナーを身につけ、貴族のような振る舞いで、エカチェリーナと面会します。そして漂流の苦難、次々と死んでいった仲間たちの無念、故郷日本への帰国の念をロシア語で訴えました。光太夫の訴えに、エカチェリーナは心を打たれ、帰国許可を出しました。こうして光太夫と数人の仲間は1792年、エカチェリーナが派遣した使節団ラクスマンらと共に、帰国を果たします。エカチェリーナは光太夫の帰国をきっかけに、日本との交渉を始めようと考えたのです。翌年の1793年、史上初の日露交渉が行われ、そこで光太夫はラクスマンの通訳を務めました。大黒屋光太夫記念館では、ロシア貴族の服を着た光太夫の姿が描かれた絵が残されています。一人の漂流民が、時の皇帝の心を動かしたことで、日本とロシアの外交の第一歩が記されました。

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by w-history | 2013-04-12 11:23