記憶から木録へ『国破れて‘山河’あり』(紙すき爺さん)

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本能寺の変

京の手前で利長、危機一髪 南蛮寺の宣教師は見た

 国立天文台(東京・三鷹)によると、この時の彗星は1582J1と名付けられ日欧で記録がある。ハレー彗星より明るかったという。現在の本能寺は、京都市役所前の上京区御池通り寺町下ル付近にあるが、当時は、現在地の南西約600メートル、四条西洞院の地にあった。今の京都の繁華街、四条烏丸交差点の北西付近といえばわかりやすいだろうか。「日本史」の著者でしられるフロイスは、本能寺の変が起きた時は九州にいて、歴史的瞬間を目撃することは出来なかった。

 天正10年4月、日本の上空に大きな彗星が現れた。その年に書かれた「日本イエズス会年報」によると、宣教師たちは何か恐ろしいことが起きる前兆ではないか心配したという。
 恐れは現実となった。同年6月2日、西暦で言えば1582年6月20日の水曜日、午前6時ごろだったという。京都の本能寺が炎に包まれた。天下人であり、キリシタンの後ろ盾、織田信長はあっけなく殺された。

 京を制した明智軍は、いったん南に向かい、高槻城に入ったが、高山右近を味方につけようと穏やかに去った。次いで、京の伴天連たちをむりやり動員して右近説得にかかったのである。宣教師は、日本語とポルトガル語の2通の手紙を右近に送ったという。日本語では光秀に言われたとおり「味方につくよう」と書き、ポルトガル語では「謀叛に加担することなきように」とあったという。この話で右近がポルトガル語を読めた数少ない日本人だったことが分るのだが、右近にはもともと、光秀軍につく考えはなかったようだ。「(キリシタンは)善悪が明快で、容赦会釈もないほどに倫理的なのである。切支丹は信仰上の裏切りはもとよりだが、世間の人倫関係での裏切りをも、激しく忌む」と作家司馬遼太郎氏はこの時の右近の判断を「播磨灘(はりまなだ)物語」に描いている。

 右近は、大阪から急ぎ高槻城へ帰り城を固めた。秀吉が「大返し」で備中から取って返す報が入ると、西宮まで出向いて合流、山崎の合戦へ態勢を整えるのである。
 朝の6時に起きた本能寺の変の一報が、安土城下に届いたのは約4時間後の午前10時とも11時とも言われている。留守役の武将でさえ逃げ出すものがいて「城下は上を下への大騒動」に陥ったと「可観(かかん)小説」(加賀での室鳩巣の言葉を伝えるとも言われる書)にある。
 危機一髪だったのは前田利長だった。当時21歳。信長の娘・永姫を妻とする利長は、信長に誘われて安土から妻ともども京に向かっていた。琵琶湖にかかる瀬田の唐橋手前で岳父・信長の死を知った。「京のほうから走り来るものあり、何者とみると、信長公の草履取(ぞうりとり)…」などと「可観小説」には詳しい。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。
 そのころ、北陸にあった前田利家は越中魚津城を攻めていた。事件を知ったのは2日後の6月4日である。利家、利長、右近。後に強い絆で結ばれる3人は三者三様、秀吉という巨大な星の下で歴史の舞台転回に立ち向かうことになる。

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 本能寺からわずか一町(約110メートル)東に、南蛮寺があった。高山右近が設計から資材集めにまで骨を折ったキリシタンの“城”である。本能寺の変を書き残した国内資料はいくつもあるようだが、この南蛮寺にいた外国人宣教師たちの報告書が最も生々しいと言われている。キリシタン資料の多くを翻訳した松田毅一氏(1921―1997)の著書「南蛮資料の発見」には、以下のように「本能寺の変」目撃録が訳されている。
 その朝、南蛮寺では早朝のミサの準備をしていた。本能寺の門前での騒ぎに気付く。「単なる喧嘩ではない。明智が信長の敵となり信長を包囲した」と第一報。やがて「内部には謀叛を疑う気配はなく若い武士と茶坊主と女たち以外はなく、抵抗するものはいなかった」と詳細な中身が伝わる。
 「手と顔を洗い終えて手拭いで身体をふいている信長に矢が放たれた。信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍(ながやり)である薙刀(なぎなた)という武器を手にしてしばらく戦ったが腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り戸を閉じそこで切腹した」(要約)と続く。
 日本側の「信長公記(しんちょうこうき)」によると、信長が手にしたのは弓で、ツルが切れるまで矢を放ち続けたという。また、大久保彦左衛門の「三河物語」には、謀叛が起きたと聞いた信長は「信忠(のぶただ)=信長の長男=の裏切りか」と叫んだことになっている。信忠は、本能寺近くに陣を張っていたが、この朝、父とともに明智軍に殺されている。事実かどうかは別として、信長は、明智の裏切りをまったく予想しておらず、当時の人々が信長が自分の息子に謀叛を起こされる可能性さえあることをばく然と感じていたことを伝えるエピソードでもあろう。
 さらに、大久保彦左衛門は信長の死を「因果」と決め付けている。信長の恩恵を受けた宣教師、ルイス・フロイスも本能寺の変を「信長の大いなる慢心による」と表現している。信長の、対一向宗や比叡山との宗教戦争で見せた大量虐殺は、人の死を見慣れた戦国の世でさえ、異様で凄惨(せいさん)なものと受け取られ、信長が、いつかは非業の死を遂げる予感が人々にあったことを、示しているのである。
 よく知られたように、明智光秀は備中攻めの羽柴秀吉の援軍として進軍中に、京都郊外の老坂(おいのさか)で進路を本能寺に変えた。が、西への援軍は明智光秀だけではなかった。高山右近、筒井順慶(じゅんけい)ら近畿の諸大名たちも一斉に備中へ向けて軍を進めていたところだった。高槻城を出た右近は大阪付近にまで進んでいたらしい。城はほとんど空っぽだった。(北國新聞「加賀百万石異聞」)

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京都の錦市場を北の方角へ抜けるとやや東に本能寺が現れます
もちろん再建されたものでしょうが位置はほぼこのあたりだった
ようで修学旅行の学生さんをちらほらみかけます

近年、商店街はさびれる一方で市場の文化も知らない若者が
騒いでいるのはちょっと残念ですね
本能寺の近辺はとくに繁華街というわけでもなく閑散として
古都の商いを散策するのにもカフェで休憩することもできます

鴨川沿いには今もプロテスタント教会が存続しているようです
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by w-history | 2013-04-11 18:35